禅のこころ

心頭滅却すれば、火も自ずから涼し

 

先日、諺(ことわざ)の本をめくっていると

「心頭滅却すれば、火もまた涼し」

という言葉が、ふと目に入りました。

 

HONO

 

その本に解説されていた意味は

「いかなる苦痛も、心の持ち方次第で、苦痛とは感じられなくなる」

というもの。  

驚いたのは、その用例として次の文が明記されていたことです。

 

「 腕を折ったくらいで、悲鳴をあげるな。 心頭を滅却すれば、火もまた涼しだ。」

 

腕を折ったぐらいで……と簡単にいっていますが

実際に腕を折ると、たいへんな苦痛に襲われ

誰でも悲鳴をあげてしまうものでしょう。

そんな一大事にも関わらず

「心の持ち方次第で痛くなくなる。だから悲鳴をあげるな」

というのは

どこか、おかしくはありませんか。

・・・

そもそも怪我による肉体の苦痛は

どれだけの怪我をしたかを、当人に解らせる信号なので

骨折をした苦痛で、悲鳴を上げるというのは

人として当然のことなのです。

この諺の本によると

その出典は

天龍寺の開山である夢窓国師と関係の深い甲斐の恵林寺が

織田信長の焼き討ちにあった時、その当時

住持を務めていた快川禅師の

「末後の一句」。

 

ERINJI

快川禅師とは、武田信玄が帰依した高僧。

織田信長も禅師を慕い

信玄亡き後に自分の師になるよう招くものの

禅師は武田家との恩義を重んじて、その申し入れを辞退する。

これを因縁に信長は

禅師の住する恵林寺に焼討ちをかけ

禅師をはじめとする百余りの修行僧たちを

山門の楼上に追い詰め、周囲から火を放った。

その炎を見ると、快川禅師は

一山の禅僧たちに向かって、次のように述べたと伝えられる。

「わたしたちを焼き亡ぼそうとする、この火焔に向かい

いかに対処するか。平生(へいぜい)に体得した

それぞれのさとりの力量の程を言葉にしてみなさい」

弟子たちは、この禅師の言葉にしたがい、

それぞれが思い思いに、自分のさとりの境涯を詩の形で述べた。

そして最後に、快川禅師が自ら声にして詠んだものが

「心頭滅却すれば、火もまた涼し」

HONO02

 

一同は、その直後に猛火に焼かれて亡くなった……

………………………………と解説されていました。

諺の本で

「腕を折ったくらいで、悲鳴をあげるな」

という驚くべき用例を挙げた筆者は

たぶん

この快川禅師の逸話を

幼い頃に耳にし、その時に感じた悲劇的な心象が

今も鮮烈に脳裏に刻まれていたのでしょう。

実際にそうしたイメージを持つ日本人は

古今を問わず多いようです。

・・・

しかし

この解説には、肝心なことが欠如しています。

それは、快川禅師の末後の一句は

唐の詩人・杜荀鶴の『夏日題悟空上人院』にある

次の詩がその根源とされていることです。

 

参状閉門披一衲

兼無松竹蔭房廊

安禅不必須山水

滅却心頭日自涼

 

諺のもとになったのは、第四句の「滅却心頭日自涼」ですが

この漢字を見て、何か気づきましたか?

 

そうです。

この詩は「火も “また” 涼し」ではなく

「火も ”自ずから” 涼し」となっているのです。

第一句から第四句までを訳すと次のようになります。

MITI01

            夏の一番暑い盛りに、寺の門を閉めて衣を着て坐禅をしている。

            もとよりこの寺には、涼しい松の木陰や竹藪は一つもない。

            そもそも坐禅をするには、必ずしも涼しい環境はいらない。

            分別や妄想を滅した境地に入るならば、たとえ火のような熱さでも

            これを涼風のように頂けるではないか。

                                 (山田無文老師訳)

つまり

本来の「滅却心頭日自涼」とは

「 人の心が不安になるのは、暑いとか涼しいとか、苦しいとか楽とか

  天国だとか地獄だとかいう、“分別”や“妄想”が起こることで生じる。

 しかし心を一つに集中して、余計な思いを滅却することができれば

どんな環境に身を置こうとも、自ずから”安心“を得られる。」

という意味なのです。

この詩の

第三句・第四句の

「安禅不必須山水 滅却心頭日自涼」は

後に『碧巌録』第四十三則 “洞山無寒暑” の 【評唱】で用いられ

現在も禅僧や禅を学ぶ人々の必須の読本となるほど

禅の世界では有名な言葉なのです。

そして

快川禅師もまた

この『碧巌録』を読まれたに違いありません……

………とすると

「安禅不必須山水 滅却心頭日自涼」

という句の真意を知る快川和尚が

「心の持ち方次第で、肉体の苦痛は無くなる」

というニュアンスで、自らの末後の一句に用いたのではない

ということがわかるのではないでしょうか。

 

DARUMA02

痛ければ「痛い」、暑ければ「暑い」、怖ければ「怖い」

と、その時々、心の感じるままに思ってもいい。

それはそれで、自らの素直な心の現れなのだから……。

でも

そうした苦しみから、ほんとうに心を開放したいと思うならば

心の感じ方・持ち方を変えるのではなく

坐禅をして

心を一つに集中し

己(おのれ)と正面から向かい合う。

そうして

その時の心にある様々な思いを

一つ一つ滅していくと

 

 ・・・・・心は、自ずと安らかになっていく・・・・・  

 

これが、諺の「火もまた涼し」ではない

本来の「火も自ずから涼し」の意味なのです。

 

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