禅のこころ

●山水には得失なし、得失は人の心にあり○

sansui

夢窓疎石国師と足利直義公との問答をまとめた

『夢中問答』に

「山水には得失なし、得失は人の心にあり」

という教えがあります。

ここでいう「山水」は

単に山川草木のいわゆる「自然」を表しているのではありません。

人により人工的に造られた「庭」

……そんな意味も込められていることを、ご存知でしょうか。

 

『夢中問答』第五十七段「仏法と世法」の中ほどで

夢窓国師は「山水と庭」について、次のように述べておられます。

講談社学術文庫『夢中問答集』 の現代語訳を参考にして

その内容を紹介しましょう。

 

昔から今に至るまで、山水(さんずい:造園)といって

山を築き、石を立て、樹を植え水を流して、愛好する人が多い。

その山水の趣は、同じようでも

その考えは 、それぞれ違っている。

あるいは 、自分の心では、大しておもしろいとも思わないのに

ただ家の飾りにして、よその人に

「よさそうな住居だな」

と言われたいために構える人もある。

 

あるいは 、万事に欲配る心があるために

世間の珍宝を集めて愛好する中に

山水をもまた愛して、奇石珍木をえらび求めて

集めて置いている人もいる。

こういう人の類は 、山水の風雅な点を愛するわけではなく

ただ「浮世の塵」を愛する人だ。

~中略~

あるいは 、生まれつきがあっさりしていて

世俗のことにはかかわらず

ただ詩歌を吟じ、庭園で気をはいて、心を養う人もある。

「自然の山水にとらわれた業病」

「庭園に取りつかれた不治の病」

というのは、 こういう人をいう語だ。

こういうのを世間の「風流人」といってよろしい。

たとえこのようであっても 、もし求道の心がなければ

またこれは妄執が輪廻する基となるものである。

 

あるいは、この山水に向かって眠りをさまし、徒然を慰めて

「仏道修行の助け」としている人がある。

これは、世間一般の山水を愛好する考えとは違っている。

まことに「貴い」といってもよろしかろう。

けれども、 山水と仏道修行の「差別している」からして

真実の仏道修行者とはいえない。

 

あるいは 、山河大地、草木瓦石、ありとあるものすべて皆

「自己の本文」であると信ずる人が

一時的に山水を愛好することは

「世間の人情」に似ているけれども

そのままの世間の人情を「求道の心」として

泉石草木の四季折節に移り変わる気色を

「心の工夫」とする人がある。

もしもこのようであれば

求道者が「山水を愛する模範」とするがよい。

 

こう考えると

山水を愛好するのは悪事ともきめかねるし

また、必ず善事とも言いにくい。

 

なぜなら

山水そのものに利害得失はなく、それは「人の心」にあるからだ。

(山水には得失なし、得失は人の心にあり)

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禅の教えには

私たちのような意識や感情を持たない山川草木が真理を語る

「無情説法」というものがあります。

天龍寺にある曹源池庭園は

夢窓国師がこの教えを深めることで

山水のなかに「仏法の世界」を感じ取り

具現化したものといわれています。

 

私たち人間は、

どうしても利益や利害などの得失をすぐに考えてしまう。

また、その「心がけ」によって 得もあり、失もあり

ということを何度も繰り返し

その結果「苦」を感じる。

 

ところが

無情な山水には 、それが全くない。

私たちが「安心」を得るために学ぶべきは

そうした山水の

つねに「ありのまま」でいる心でしょう。

 

あなたは 、自分の「ありのまま」の心を知っていますか?

世の中や他人に惑わされない 「本来の自分」

と出会っていますか?

 

天龍寺の僧堂で修行をする雲水たちは

今でも夜になると、曹源池の辺で夜坐(坐禅)を組んでいます。

漆黒の闇の中で、雲水たちは自己と静かに向き合い

「ありのままの自分」

を毎日探しているのです。

 

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