禅のこころ

●人格とは、善悪を超えたもの○

禅イメージ03photo

 禅の修行は〝見性〟が第一と昔からいわれています。

見性は〝悟り〟や〝解脱涅槃〟というコトバで表されることもあります。

仏法を習うというは、自己を習うなり。

自己を習うというは、自己を忘るるなり。

自己を忘るるというは、万法を証せらるるなり。

万法を証せらるるというは、自己の心身、および他己の身心を脱落せしむなり。

これは、道元禅師が残したコトバです。

道心に依り、禅の修行者のあるべき規範に従って、

それぞれが人格を形成していくことの大切さを述べたものです。

わたしたちも〝人格〟というコトバを日常生活の中でよく使いますが、

その意味を明確に説明できるでしょうか。

辞書を引いてみると、

①人がら。人品。

②心ある固体の認識的、感情的、意思的、および身体的な諸特徴の体制化された総体。

③道徳的行為の主体としての個人、自律的意志を有し、自己決定的であるところの個人。

④法律関係、特に権利・義務が帰属し得る主体・資格・権利能力。

などとされています。

〝人格〟とは、このように意味を理解すること自体がむずかしいコトバなので、

世間ではその人格を有するという人間を、

単純に〝善人〟と〝悪人〟に分けてしまう傾向があります。

しかし仏教には〝衆生本来仏なり〟という教えがあることから、

他人はもちろん、自分自身も〝善人〟や〝悪人〟と区別することはできないと説いています。

なぜなら、善し悪しの評価は、

時代や地域によって、善が悪になったり、逆に悪が善になることもあるからです。

禅の教えによると、わたしたちの生きる世界は、

世間虚仮(現象世界は実体のない仮の世界という意味)で、無相の世界。

だから、平等でありながら差別もあるわけです。

そうした平等と差別の矛盾は、

自分の心の内外で対立するものを認識していくことによって自覚し、

また自性本来清浄(自分の心は本来は清浄なものという意味)があることを知ったとき、

禅の修行者は〝見性〟を得るといわれています。

禅のこころ03photo2

―― 仏は「悟りの世界」、人間は「迷いの世界」の住人である ――

わたしたちは、何よりもこの二つの対立する世界(矛盾する世界)があることを

正しく認識することが大切です。

この二つの対立した世界を超えたところに、

ほんとうの悟りの世界があるのですから。

つまり、禅的にいう「人格」とは、

〝二元の対立を超えた自由人〟のことであり、

真実の道を踏み行い〝他人を思いやる存在〟のことをいうのです。

[戻る]

 

〒616-8385 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町61

Copyright (C) toukanin. All rights reserved.