古典に学ぶ

人莫鑑於流水 而鑑於止水

koten02

               『荘子』 内篇 徳充符篇

 

【 本文抜粋 】  

人莫鑑於流水、而鑑於止水。

唯止能止衆止。

     

【 読み下し文 】 

人は流水に鑑みる莫くして、止水に鑑みる。

唯だ止のみ能く衆止を止む。

 

【 現代訳 】 

人は誰も 

流れる水に真影(実物そのままの姿)が映らないから鑑とはしないで

静止した水に自分を映してみる。

そうした、ただ止水のような静かな心をもっていれば

世間一般の真の姿をとらえることができる。

 

【 解 説 】

この言葉は、『荘子』内篇の徳充符篇にあるものです。

今日の四字熟語辞典やことわざの書籍をみると

「明鏡止水(めいきょうしすい)」

〔心にわだかまりがなく、安らかに落ち着いた心境〕

という語の出典とされていますが

本来は、単純に心の安らかな状態を表したものでありません。

なぜなら「唯止能止衆止」の三つの「止」のうち

始めの止は「自分の心の静かさ」を

次の止は「世間のさまざまな事物の姿」を

最後の止は「自分の心に止める(映す)」ことを

意味しているからです。

ryusui01

徳充符篇では、はじめに次の逸話が紹介されています。

中国古代の西周・春秋時代の列国の一つに魯という国があり

そこで足切りの刑罰を受けた王駘(おうたい)という人物がいた。

なぜか彼のもとは学びを得ようとする者が次々と訪れ

その数は孔子の門下と同じくらいであったという。

彼は特別な説教している様子もないのだが

彼のもとへ訪れた人々は、

それぞれ何かを得て帰っていく。

孔子の弟子の常季(じょうき)が

その様子をとても不思議に思い、理由を孔子に尋ねると

その答えとして

「人莫鑑於流水、而鑑於止水。唯止能止衆止」

と、孔子は冒頭の言葉を述べたのです。

 

これを意訳すると

移り行く「時代の様相」や変化する「世間の常識」に

ただ流されたままでは

自分の心を安らかに落ち着かせることはできない。

また時代や世間のさまざまな事物も

流れを止めてこそ得られる

「自分の心の静かさ」の中でこそ

その「真の姿」を能く止める(よく知る)ことができる

というニュアンスになるでしょうか。

 

きっと王駘は、そうした「真実」を体得した人物で

「時代の様相」や「世間の常識」という

心外の事象に、心を惑わされることが一切なかった。

人は誰でも

そんな心の静かさが備わっている人のそばに居るだけで

自らの心の静けさを感得することができます。

だから、王駘が特別な教えを説かなくても

実際に彼の近くにいた人々は

 それぞれに何かを得ていたのでしょう。

ryusui02

「明鏡止水」が

荘子のこの話を出典とするならば

その意味は

「心にわだかまりがなく、安らかに落ち着いた心境」

を表すだけでなく

「つねに止水のような静かな心境を持てば

世間一般の真の姿をとらえることができる」

という、さらなる教えがあるようです。

 

荘子のこの言葉に出会ったとき

白隠禅師が書した『坐禅和讃』の後半に

記された次の詩を思い出しました。

「 いわんや自ら廻向(えこう)して 直に自性を証すれば

自性すなわち無性にて 既に戯論(けろん)を離れたり

因果一如(いんがいちにょ)の門ひらけ 無二無三の道直し

無相の相を相として 行くも帰るも余所(よそ)ならず

無念の念を念として 謡うも舞うも法(のり)の声

三昧無礙(ざんまいむげ)の空ひろく 四智円妙の月さえん 」

 

時に流されない、心の外の世界に惑わされない

自分の心の静かさ……。

できるならば、日々そうした心境でいたいものです。

 

[戻る]

 

〒616-8385 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町61

Copyright (C) toukanin. All rights reserved.